佐賀女子短期大学 今村正治学長インタビュー[前編]
立命館大学卒、立命館大学の職員として40年にわたり学園の裏方を仕切り、APU(立命館アジア太平洋大学)の副学長として、民間企業出身の出口治明学長(元ライフネット生命社長)選出などにもかかわった今村正治氏。今度は、自身が学長になり、大学のTOPとして様々な改革、企画をリードしています。全国的にも異例と言われる「大学職員出身」の学長、今村正治氏はなぜ、さまざまなプロジェクトを成功に導くことができたのか。そして、これから、どこへ向かおうとしているのか。佐賀県で3つ目の「4年制大学」に向けて、全力疾走する学園を率いる今村学長の、その魅力とバイタリティーの秘密に迫ります。
■「将来どうするの」と言われ、とにかく立命館に就職
Q:今村正治学長は、学生時代も、就職先も立命館でした。大学進学、就職、APUまでの経歴を教えてください。
今村学長:もともと、大阪に生まれ(1958年)、引っ越しが多く、小学校も3回転校するなど、一か所に住んだことが少ない少年時代を過ごしました。中学生の時、高野悦子の『二十歳の原点』(新潮社)を読んで感銘を受け、著者のいた立命館大学に行きたいと漠然と思っていました。そして、京都の大学街の雰囲気にもあこがれ、立命館大学を第一志望に、大学受験をしました。
高野悦子さんと同じ文学部史学科に入学し(1977年)、東洋史を専攻しました。ぼくらの頃の大学の文学部は、「就活するのは野暮」みたいな雰囲気がありましたね。実際当時は、進路は民間企業が少なく、公務員や教員になる者が多かったように思います。
私自身、教職免許をとりながらも、実習にもいかず、大学院にでも進むか、どうするか、みたいないい加減な状況で4回生後期を迎えていました。何になりたいとか、そういう夢も野望も持っていなかったんです。当時付き合っていた彼女(今の奥さん)に、「あなた、将来どうするの?」と言われ、とにかく就職活動をする、といっても、母校の立命館を受けただけ。それが、運よく受かった。1981年です。
1981年は、立命館大学広小路キャンパスが閉じ、衣笠キャンパスへの完全移転の年ですが、いまから思えば、牧歌的な時代でした。立命館大学は伝統校ではありましたが、当時は「立命館は、赤い(ラディカル)・暗い・ダサい」などと揶揄されていました。大学の「改革」なんていう言葉からは、ほど遠いところにあり、入学志願者も減り、人気が落ちていた。「これからは“関関同立”ではなく、“関関同産(京都産業大学)”の時代だ」みたいな声も聞こえてきました。
幸運だったのは、私が入職してから、立命館に「改革の波」が押し寄せたこと。そこから一気にAPU(立命館アジア太平洋大学)の開学(2000年4月)まで行ってしまったのだから!
今日、学園は、立命館大学、立命館アジア太平洋大学、付属中高校4校、付属小学校1校、学生・生徒・児童約5万人の規模にまで拡大しています。私が立命館に入職してからほぼ四半世紀、学園はみるみるうちに発展していきました。
大学が目に見えて大きく動き始めたのは、1988年に国際関係学部を設置した頃だと思います。その前年(1987年)には、理工学部に情報工学科を設置しました。国際関係学部は、当時の立命館のイメージからは想像できない展開だったと思います。「改革」が日常になる、そんな転機だったように思います。
そして、次の大きな転機が、滋賀県草津市への理工学部拡充移転でした。課題であった独立採算を達成するには規模拡大が不可欠、しかし手狭な京都のキャンパスでは困難、新天地を求める気運がうまれたのです。そのことが立命館の「出京都」のはじまりです。1991年に移転を決定、1994年に、びわこ・くさつキャンパス(BKC)開設となりました。
■大分県の誘致計画に反応したのは立命館のみ?
今村学長:94年からは、APUの設立の準備が始まりました。きっかけは、大分県(庁)からのアンケートだったんです。アンケートが来て、「大分県への大学誘致に興味があるか」という質問。YESと答えたのは、なんと立命館だけだったと、先輩から聞きました。(笑)!
いま思えば、ものすごいことを考えていたと思いますね。APUは、国際化の極致のような大学。定員の半分が留学生、しかもアジアだけでなく、世界中から集めてくるというのだから。教員も50%外国人、学生も50%留学生、国は50か国以上から。「3つの50」を掲げた大学は、日本にも世界にもありませんでした。立命館には、国際関係学部の新設、BKC拡充移転など、国際化と大型公私協力の経験がありました。この合わせ技というべき産物がAPUだったという気がします。
APUは、1995年に構想が発表されましたが、私は、うまく行くという感覚はなかったですね。
当時、私は学生課長というポジションでした。この仕事、つまり学生課の仕事は自分の「天職」だと思っていましたね。学生が好き、実務は苦手、自治活動やサークル活動支援、アメフトなどスポーツ強化、事件事故対応、ときには、悪徳新興宗教からの脱出工作など、てんやわんやの毎日でしたが、充実していました。また、学生課の立場から、BKC開設事業にもかかわりました。京都のキャンパスにはない、新しい学生生活支援を具体化していたのです。
だから、APUは自分事ではなかった。
ところが、その後、新大学(APU)開設事務局に配属を命じられて、開設準備課長を拝命します。初めて、大分県別府市のキャンパス予定地・十文字原高原に立った時には、ホントに呆然としました。本当に何もない!ここに大学をつくるのか…。信じられませんでした。
それでも、私は、新しいこと、最先端のことは大好きなので、こうなったら本気で頑張ろうと思いました。1997年から京都のキャンパスで、そして、開学の一年前、1999年からは別府に移り住んで、開学の準備にあたりました。開設準備の体制は、法人部門が寄付集め・ネットワークを、そして、開設事務局には、教育内容のデザイン、学生募集の担当があり、私が主に担当したのは、「その他」、開設準備もろもろです。学生生活支援政策、たとえば学生寮・APハウスのデザイン・運営方針や、キャンパスの建設にかかわる実務、県庁・市役所の折衝窓口、地元マスコミへの対応などでした。
APU開学事業全体の成否を握っていたのは、学生募集、とりわけ、留学生の募集でした。私は、韓国の担当・責任者にも任ぜられ、1998年に開設した韓国事務所を拠点に、韓国全道、100校以上の高校を訪問し、説明会をおこなっていました。別府で開設準備の仕事をしながら、韓国での募集活動でしたから、大変でした。とくに開学の1年前、1999年は人生最大の繁忙の年だったと思います。毎週のように、韓国と別府を往復していましたね。それはどこの国・地域の担当者も同じだったわけで、大学をつくるということは、教職員が、情熱的に、全経験、全能力を総動員してこそできるものだと思いました。
■苦手な財務も総務も、やるしかない
今村学長:1999年から5年半、2005年まで別府生活。2000年の開学後は、スチューデント・オフィスの課長、そして事務局次長を拝命し、学生支援、学生募集全体を担当するようにもなりました。別府の町も好きになり、土地にもなじんでいたんです。このまま定年までAPUで働きたい、そんなふうに思っていたら、2005年の秋、京都の立命館本部に戻されて、「財務部」に配属となりました。職員としてのキャリア積むならば「お金」に詳しくなりなさいということだったと思いますが、私にとっては、有難迷惑でしたね。結局、数字を読むのは、ずっと苦手でしたが、財務部での経験は、その後の仕事には大いに役に立ちました。
次は、総務部に異動し総務部長に。大変でした。総務部というのは、まあ日々ネガティブなことに対応、なんですね(笑)。組合との厳しい折衝とか、人事問題とか、大学や教職員の不祥事対応とかね。そんな毎日でしたが、機構改革にもとりくみ、「総合企画部」を立ち上げ、部長に就任。総務部は1年で卒業しました。総合企画部では、2020年に向けた「R(立命館)2020計画」策定にとりくみました。この計画の中で最も事業規模が大きかったのが、大阪いばらきキャンパス(OIC)開設でした。
なぜ、OICだったのかお話しすると、京都の衣笠キャンパス(学生数18,000人)ではキャンパスの「狭隘化」が最大問題になっていました。もともと学生数に比して狭いキャンパス(12万㎡)に、授業出席率が向上し、学生であふれかえりました。駐輪場には延々と長い行列ができる始末。キャンパス問題の抜本解決なしに、教学の発展はない、という状況に立ち至っていたのです。また、京都よりも数段広いBKCにも課題がありました。1994年に開設したころは、学生数5,500名。それが2010年頃には、17,000名になっていました。交通インフラの整備が追いつかず、車とバスが数珠つなぎになって、目前のキャンパスになかなかたどり着けないような状況でした。問題解決のためには、第3のキャンパスが必要になっていたのです。
そこに、大阪府のJR茨木駅前、サッポロビールの工場跡地が売りに出るようだという話を聞き、入手にむけてうごき始めました。一方、学内には、あくまで京都で考えるべきという考えのもと(滋賀には行ったのですが・・・)、大阪にまで手を広げたくないという雰囲気が強くありました。APU、BKCの両方とも、公私協力方式での開設でしたが、大阪の場合は自前で、サッポロビールから土地を買うという話です。立命館始まって以来の大型投資プロジェクトです。学内は判断を二分し、大揉めに揉めて大変でしたね。結局、大阪問題が争点化されてしまった総長選挙の結果、茨木市からの多額の支援も得られたことなどもあり、OICは2015年にオープン。2024年4月には、移転学部も増えて、8000名規模のキャンパスになります。
それで、もう立命館では、これ以上やることはないんじゃないか、と漠然と思っていたところ、APUに辞令がでて、また別府に戻ることになりました。APUの副学長・立命館常務理事として。2014年1月のことです。
APUは、2000年開学後こそ、順調に滑りだしましたが、やがて、大きな問題に直面します。想定より早く、奨学寄付金が枯渇することになったのでした。そこで、教学改革とともに、定員規模の1.5倍化、学費の値上げの断行による収入増で、奨学金予算を確保することにしたのです。2006年から始まった「ニューチャレンジ」計画です。定員が増えると、国内募集は苦労します。そんなAPUの苦境を、私は京都の本部から見つめているしかなかったのです。打開の一手は、東京ターゲット戦略でした。留学生をはじめとする卒業生が、東京で企業に働き始め、日本社会では「グローバル化」が声高に言われるようになった。東京でこそAPUは認められる!営業部隊を東京に送り込みました。これが功を奏して、首都圏からの学生が増え始めました。入学者数の現状を見ると、地元九州はあまり増えていませんが、首都圏からの在学生は、全学生の約25%を占めています。こんなことは、誰も想像もできなかったことです。こうして、APUは危機を脱します。私はその現場にはいませんでした。
私が副学長として、別府に戻った2014年当時、APUは、「壁」にぶつかっていると思っていました。開学の時とは違って、全国で、「国際」、「グローバル」を標榜する大学や学部が続々と立ち上がっていました。「APUは、国際大学群の中に埋没したのでは?」という声も聞かれるようになっていました。そんじょそこらの大学に負けるもんかという自負心はありましたが、APUをあらためて新鮮に浮き立たせる「再定義」が必要でした。「多文化・多言語環境」を超える打ち出しが。それで、始めたのが、日経BPと組んだWebを中心とする広報展開でした。そして、それが、本として結実したのが、『混ぜる教育』の出版でした。「混ぜる」をキイワードに、学生、地域、自治体、企業とAPU連携が、未来を切り拓いていく、そんな希望を実感させるものでした。
さらに、APUが持続的に発展するには、大改革が必要だと痛感していました。しかし、APUの成功体験をとても捨てきれなく、「愛しすぎている」、「抱きしめすぎている」教職員には、改革すべき「アラ」が見えなくなっていました。そこで、私は「第2の開学」として、新学部の構想に着手しました。「アジア太平洋学部」、「国際経営学部」に続き、3つ目の学部設置です。相当の時間がかかりました。「サステイナビリィ観光学部」が開設されたのは、私が退職して4年後、2023年4月のことです。
■ 日本初、総合大学の学長 国内外公募に挑戦する
今村学長:2回目のAPU、新学部構想とともに、強く記憶に残っているのは、新学長の選考です。それまでの初代・坂本和一、モンテ・カセム、是永駿、三人の学長の方々は、立命館総長(立命館大学学長兼ねる)の任命でした。総長が、APU担当の副総長を選び、その人がAPU学長も兼ねるという考え方でした。立命館の総長は、教職員、学生、高校生、卒業生、父母など全構成員の代表による投票で選ぶ制度で、立命館民主主義の根幹を成しています。だから、APUの構成員代表も投票して、民主的に選んだ総長なのだから、APUの学長を、総長が任命しても当然だと考えられていたのです。
しかし、APUは、グローバル大学としての地位も確立し、複数の国際認証も獲得し、卒業生も1万人を超えていました。もう一人前の大学として自立する時期となっていたんです。そこで、四代目の学長は、自前で選びたい、いや自前で選ぶべきだと行動を開始したわけです。京都の本部で、とくに立命館大学の学部長の方々との協議は、かなりの難産でしたね。全学で民主的に選んだ総長をないがしろにする、つまり立命館民主主義を軽んじていると思われたのでしょうか。結局、協議はおよそ1年にも及び、ようやくAPU独自の学長選考が認められることになりました。
私は、学長選考委員会の委員長になりました。選考委員会は、APUらしく教職員と若い卒業生、もちろん多国籍、ジェンダーバランスにも配慮しました。さて、選び方はどうしよう?委員会でいろいろ話し合い、公募にすることにしました。グローバルな大学なので、国内・国外を問わず、推薦も立候補も可とする。推薦人については資格不問とし、学生からの推薦も可としました。別府温泉の番台のおばちゃんも推薦できる仕組みです。結果、104名もの候補者リストが出来ました。
意向確認などをして、最終的に5人が候補として残りました。そこに、出口治明さんの名前がありました。
どういう学長像がいいのか、みんなで、おおいに悩みました。結局、APUは「第二の開学」をめざすのだから、大きなチャレンジの経験があるイノベーターがいい。そう考えました。候補者のなかで、アカデミシャンでなかった人は、出口さん一人だけですが、候補者5名との面談、最終候補者2名との面談を終えると、自然に委員の中で、「出口治明さんを学長にしたい」という雰囲気が高まり、決まってしまった。総長、理事長も承認し、正式に出口治明さんに決まりました。2017年12月のことです。
APU学長としての出口さんの活躍は、私が述べるまでもありません。「第2の開学」のかじ取りを見事になさったと思います。
[後編へ続く]
【リンク集】
佐賀女子短期大学HP ➡ https://sajotan.asahigakuen.ac.jp/
学長挨拶・プロフィール ➡ https://sajotan.asahigakuen.ac.jp/about/greeting/
インタビューした人:今村 正治(いまむら まさはる)
1958年、大阪府生まれ。
1981年、立命館大学文学部史学科卒業と同時に、学校法人立命館に就職。
財務部長、総務部長、総合企画部長を歴任、立命館アジア太平洋大学設立に携わり、
2014年、APU副学長・立命館常務理事に就任。
2019年、立命館定年退職後、学園経営コンサルタントとして今村食堂株式会社設立
株式会社ほぼ日、札幌慈恵学園・札幌新陽高校などでアドバイザー活動。
現在、学校法人旭学園理事、佐賀女子短期大学学長。
・インタビュー 本山德保,原田広幸:KEIアドバンス コンサルタント
・構成,記事 原田広幸