リアリズムに根差しつつも「大学の理想」を求め続ける
東洋大学 矢口悦子学長インタビュー[後編]
矢口悦子学長は、コロナ禍の2020年に学長に就任、TOYO SPORTS CENTERの創設など、スポーツマネジメント体制の確立に実績を残し、学部学科の垣根を超えた総合知教育、人生100年時代に応える大学のリカレント教育にも力を入れてきた。そこにある基本姿勢は、学生を中心に考える、真の意味での学生本位の大学の在り方だ。リアリズムに根差しながらも、あくまで大学のアイディアリズムを追求している。
東洋大学[後編]
【リベラルアーツと学問の自由】
Q:リベラルアーツや教養という概念が、リスキリングの手段のように商品化して、全般的にビジネスの論理に染まってしまっていることを危惧しています。大学は経営体でもありますが、そちらの方向性にばかり議論が偏りすぎてしまうのはいかがなものでしょうか。
矢口:理系か文系かに関係なく、リベラルアーツが「ファスト教養」に陥ってしまったり、教養とは何かという本質を見失ってしまったりしては、大学としては失格です。
ただ、そうやって後ろから批判しているだけでは駄目です。政府や産業界の主導する政策をうまく活用しつつ、教育・研究の本質は大学側できちんと守っていく、というぐらいのしたたかさがなければ、大学は(ビジネスの論理に)まったく太刀打ちできません。残念ながら、大学がいくら「学問の自由」を主張したところで、やはり経済界から要請されて、政府が動き、ある種の教育政策となってそれが実行されれば、大学は当然、それに対応する必要があるでしょう。
しかし、同時にそうした政策を活用しつつ、本当に学びたい人が少しでも学べるチャンスを増やすことができたならば、結果としてそれはそれで良かったと考えるようにする。そして、その代わりに、学びの中身は大学に任せていただき、本質的な教育を実践する。経営戦略的には、社会の中で尖らせるものは尖らせて、今人々が求めていることを大学の責任として提供していくことが必要です。ただし、同時に大学としての本丸はきっちりと守ります。
Q:戦略的に、世の中のトレンドとしての必要性にも応えつつ、同時に大学の理想も追求するということですね。それはそれで大変なことだとは思いますが、でもやはり、今の世の中、大学ぐらいしか学問の自由とか、個の自由とか、そのような理想を純粋に追求できる場は、もうなくなっているような気がします。
矢口:おっしゃる通りです。本学のような私立大学の経営は、学生の授業料で成り立っているため、国立大学に比べれば補助金も限られていますが、それは人々の貴重な税金からいただいているわけで、大学という存在は、非常に公共性の高い存在であることは間違いありません。そのような状況でありながら、「学問の自由」を語れる環境は、すごく恵まれている場だと思っています。
とはいえ、数十年前の大学のリベラルさ、自由さを経験された方たちは、「昔の大学はもっと自由だった」と語り、現状を批判することもあります。しかし、この現代において、昔と同じような自由な文化を学生に提供できるかというと、やはり難しいものです。
例えば、今はSNSで巻き込まれる犯罪、薬物の問題などがあります。巧妙なネット社会の犯罪などは、学生が自ら飛び込んだわけでなく、知らないうちに騙されて、「加害者」となってしまうかもわからない。とにかく学生を守るためには、何度も何度も知識を身に付けるような研修を実施して、チェックを行なって、その危険性を理解してもらうまで徹底してやるしかありません。
もちろん、昔の学生にも危険はあったのですが、危険性はある程度可視化できました。しかし、今、学生の背後には、可視化されないリスクがいたるところにあって、それらから、学生をどう守るかが重要かつ難しい時代になってきています。理想的には、大学には、オープンで色々なことがごちゃごちゃと存在していて、いつも誰かが議論していて、「何とか生きていければそれでいい」、みたいな、そういう息苦しくない世界も魅力的だと思うのですが、現代社会では、そういう自由さを守ることはとても難しいです。
【コロナ禍での大学運営】
Q: 貴学は、2023年4月から“TOYO SPORTS CENTER”(TOYO SPORTS CENTER|東洋大学公式サイト)をお作りになられて、体育会運動部もガバナンスの中に一つ入れて、より管理と支援をしていく体制を整えているとお聞きしました。大学スポーツにおける課題や、それに対して今後どのように手を打っていくのか、構想をお聞かせください。
矢口:東洋大学は、スポーツにとても力を入れています。本学では、毎年優秀なアスリートが育っていますし、2024年パリオリンピック・パラリンピックにも、卒業生を含めるとたくさんの選手が出場しました。(*大学院1年の鏡さんがレスリングで金メダル、学部1年生の松下さんが競泳で銀メダルを獲得し、大活躍してくれました。)
本学では、2016年に掲げた“TOYO SPORTS VISION”に基づき、2023年4月に“TOYO SPORTS CENTER”(以下TSC)を開設し、学長としてセンター長に就任しました。運動部へのサポートとコントロールを行なう仕組みは、コロナ禍の経験を通じて整ってきました。
学長就任後、すぐに対応を迫られたのは新型コロナウイルス感染症への対策でした。就任直後の2020年4月の初めには、最初のコロナ対策ガイドラインを作成しました。その中で、コロナのクラスターや重症化などのリスクから、寮生活をしている運動部の学生たちを守るための仕組みを考え、感染者が出た場合の対応、学生寮の内部の動線、シャワー・トイレの使い方、そして洗濯の仕方まで、生活の全てにわたって、職員や指導者たちが、学生たちの声を聴きながらルール化を行なったのです。
このルール化は、一部から「厳しすぎる」とも言われました。しかし、徹底的にやり遂げたと思います。陽性となった学生への食糧支援に至るまで、職員が入り込んでサポートしました。資金集めを行ない、コンビニを通じて数日分の水や食料を配給してもらう仕組みも作りました。このように運動部に入り込むことで、部員たちを守り、その結果として、大学側と学生の間の信頼関係が確固としたものになったと思っています。
また、各種スポーツ連盟や団体が作っている内容を参考にしつつ、大学としての独自のガイドラインも定めました。練習を再開する条件、禁止条項など、すべてにおいて詳細なガイドラインを作ることにより、運動部学生を守る。そうした活動を通じて、学生スポーツは大学教育の一環でもあるということが見えてきました。
学生スポーツが大学教育の一環であるならば、スポーツ界一般のルールよりも、大学のルールが優先します。学生を守ることができなければ、どんなに優秀なスポーツ選手を輩出できたとしても、それは大学スポーツではありません。
こうした仕組みができると、学生に何かあるとすぐに情報が入ってくる、そして即時に対応できる、という好循環が生まれ、学生自身が大きな傷を受けたり、反対に誰かを傷つけたりという問題を生じさせない対応が可能となります。
ちょっと横を見れば、世界レベルで活躍する仲間たちがいる。トップアスリートたるもの、人格的にもしっかりしなきゃ駄目だ、ということを彼らは周囲からも学んでいます。大学としても、真面目に頑張っている運動部学生をしっかりと守らなければ、と改めて思いを強めています。
もちろん、学生を守る仕組みを作った、信頼関係を構築できた、と言っても、完璧というものはありません。ただ、大学としては、「このようなスタンスで学生に向き合っている」ということを、現場の指導者や監督にもきちんと理解していただけるようお願いしています。ただ、この仕組みを維持するには、やはり、教職員・指導者全員の、並々ならぬ不断の努力が必要なのも事実です。
【大学経営は実地で学んだ】
Q:これまでのお話から、先生が大学のトップとしての指導力、マネジメント力というのを発揮されていることを実感します。マネジメントや大学経営において、とくに勉強されたことや、意識されていることはあるのでしょうか?
矢口:実地で学びつつ、なんとかやってきた、というところです。私の場合、ちょうど学長に就任した時にコロナ禍に突入しましたので、学長の辞令を交付された4月1日に何をしていたかというと、コロナ禍における対応を検討する委員会を作るため、規程作りをしていました。とにかくすぐに始めないと、授業もなにも全く動かせないので、未曽有の緊急事態に向き合っていました。
「100年に一度のパンデミック」ですから、前例はない。こうなったら、ゼロから作るしかないと、副学長たちと共に規程類も自分たちでゼロから文案を作って、職員と共にガイドライン作りまで一気に行なって、4月中に授業を開始しました。
すると、今度はゴールデンウィークを目の前にして、「学生が困っている」「先生も困っている」という話が、山のように出てきました。まず、学生側は自宅でオンライン授業を受けるためのWi-Fiがない、ルーターなどの機器を持っていないという問題。授業を受けるための環境を整えるためには、ともかく学生に支援をしないといけないということで、役員会で、全学生に一人5万円を給付してもらえませんかと掛け合いました。理事長をはじめとして役員は事態をよく了解してくださり、「わかった」と合計16億近い給付を決定してくれました。よくぞ支援してくださったと感動しました。
教員側はオンライン授業をどのように実施するのかのノウハウがないために困っていて、そこで、LMS(インターネットで講義や学習を管理するプラットフォーム)を活用しました。また、当時はそれほど浸透していなかったビデオ会議システムを導入し、学部の先生たちが各種自主グループを作って勉強会を開いていました。彼らは、自主的にオンラインで授業をどう運営するかを学び、教えあい、ゴールデンウィーク明けぐらいには、さまざまな問題もすこしずつ落ち着いていきました。
しかし今度はゴールデンウィーク明けすぐに、ある学部から、もう一つの大きい問題が提起されました。それは、学生のメンタルヘルスの悪化という問題でした。人と会わずに自宅に籠って、オンラインでずっと授業を受けているだけだと、心の問題が必ず出てくる。そこで、オンライン授業だけではだめだ、学生たちが大学に来て、人と会える場を作らなければということになり、同年6月頃に、学内にそうした学生たちのスペースを用意する学部も出始めました。
学部長経験しかない私は、大学経営のことは何もわからないまま、そもそも学校法人の仕組みも実はよくわかっていないぐらいの状態で学長に就任したのです。しかし、目の前の緊急事態に対処しなければならない。この状況を切り抜けるために、全学部長や事務局の部長たちにも入ってもらい新しい委員会を作りました。
どんな組織でも、トップダウンで命令するような形だと、機動力は発揮されません。「学生の学びと研究を守るため」という目標を定め、教学を担当する常務理事に委員会メンバーに入ってもらい、必要な経費は理事会に諮って判断を仰ぐことにしました。前例がないなら教職協働で作るしかないという状況でどうすればよいかを一から考えながら進んできました。
Q:日本のジェンダーギャップ指数の低さがニュースになっていました。実際に学長として一線で活躍されている方から見て、今後の女性の活躍についてどう思われますか。
矢口:女性が活躍できるかどうかではなく、活躍しなくてはならないと思います。そうでなければ、もうこの国は立ち行かなくなるのは目に見えています。どうしようかと迷う必要もなく、とにかくやらなくてはいけない。やってみて、そして、やっていれば、自ずと力はついてくる。昔はよく「女性ならではの発想で」などと言う人もいました。しかし、今、私にそのようなことを言う人はいません。
つまり、男性でも女性でも必要なものは必要だし、力を発揮しなければいけないときは発揮する。男性でも女性でも厳しい決断をしなければいけないときがある。女性は経験がなかったり、経験が少なかったりするために、一歩引いてしまうことが多いのですが、そのような習慣がなくなれば、多くの女性はもっと力をつけられると思います。
Q:最後に、大学の関係者に向けて、何かおすすめの本を紹介していただけますでしょうか。
矢口:実は、本の紹介は難しいですね。自分の専門の領域であると特定できるのですが、大学のことについて、さまざまな関係者に理解してもらうという趣旨で選ぶのであれば、次の2冊をご紹介します。
まずは森本あんり先生(東京女子大学学長)による『教養を深める――人間の「芯」のつくり方』PHP新書(https://amzn.asia/d/07mGRAoS)です。この本は「AIなんかに振り回される人間になるな」と言っています。
もう一冊は、坂村健先生(東洋大学名誉教授、情報連携学学術実業連携機構長)の『イノベーションはいかに起こすか――AI・IoT時代の社会革新』NHK出版新書(https://amzn.asia/d/06ZarZWX)です。この本は、東洋大学の“INIAD”(イニアド:情報連携学部・研究科)で行われている教育・研究のことや、井上円了先生の精神に触れ、どうしてAIやコンピュータの世界と哲学的な思考がつながるのかをわかりやすく書いてくれています。2冊の書籍は一見、対極にあるかのように見えるのですが、私には同じことが書いてあるように読めました。ぜひ両方とも読んでみてください。
東洋大学 学長 矢口悦子教授
プロフィール
秋田県出身、お茶の水女子大学文教育学部教育学科卒業、同大学院人間文化研究科(博士課程)単位取得満期退学。お茶の水女子大学、千葉大学、山脇学園短期大学勤務を経て、2003年より東洋大学文学部教授。2020年4月に東洋大学学長に就任。博士(人文科学)。専門領域は、社会教育学、生涯学習論。
主な著作
『イギリス成人教育の思想と制度―背景としてのリベラリズムと責任団体制度―』、新曜社(1998)
『地方分権と自治体社会教育の展望』(共)、東洋館出版社(2000)
『女性センターを問う―「協働」と「学習」の検証』(共)、新水社(2005)
『変革期にあるヨーロッパの教員養成と教育実習』(共)、東洋館出版社(2012)
『地域を支える人々の学習支援―社会教育関連職員の役割と力量形成―』(共)、東洋館出版社(2015)
『英国の教育』(共)、東信堂(2017)
『日本の文化と教育』(放送大学教材)(共)放送大学教育振興会(2023)
前編はこちら
インタビュー、構成・編集:原田広幸(KEIアドバンス コンサルタント)、阿部千尋(KEIアドバンス コンサルタント)